知らないうちに、かけてしまっている色めがね。
今日の会話の中に「色めがね」という言葉が出てきて、ふと考えなおす機会があったので、まとめて見ようと思います。
色めがねで起きること
「色めがねで見る」つまり「偏った目で見る」こと。
人や物事を偏った目で見た場合、本来見えるべき側面が見えなくなってしまうことを意味します。
また、偏った目というのは、自分自身の都合で、良くない側面にばかり目を当ててしまうことを表しそうです。 (良い面ばかりに目がいく。もありそうですが)
この良くない側面ばかりを目を向けてしまった場合、自分自身の思考は以下のようにかなりネガティブなスパイラルに入ってしまいがちですね。
- 「こんな形じゃ気に入らない」
- 「この動きが気に入らない」
- 「なんでこんなことするんだ」
ポジティブなスパイラルの中で、同じようなことが頭をよぎった場合であれば、きっと僕は「では、どうすれば?」と考えるはず。
しかしながら、ネガティブなスパイラルの中でこれらが頭をよぎったとすれば、「この程度のモノだから」「それくらいの人だから」と、安直に結論付けてしまいそうです。
思考停止していると言ってもいいでしょう。
色めがねでモノや人を見てしまうと、短絡的な結論に落ち着き、深く考えずに、ただただイライラしてしまう。そんな状況が起きてしまうのではないでしょうか。
この状況になってしまうと、仕事でもプライベートでもあまりいい影響はなさそう。
色めがねをかけていることを認識する
色めがねをかけると起きるのかが分かれば、色めがねをかけていることを認識するのも楽になってくるでしょう。
色めがねをかけている状況、最低2つはあると考えています。
一つ目は、目の前に存在する物や人のアウトプットに対して、なぜそういうアウトプットに至ったのかを自分の中で深く咀嚼することなく、感情が揺らいでしまったとき、まさに色めがねをかけてしまっていると言ってよいでしょう。
二つ目。どういう経緯でアウトプットに至ったかを咀嚼したとして、それを更なる改善点が浮かんだとしても、心の中に改善点を留めておいてしまった場合。モノや人に対して一定の距離を空けながらのスタンスも、色めがねをかけている状況に値するでしょう。
僕自身は二つ目のパターンが非常に多いようなしています。 ちょっと斜に構えて、やりあわないタイプですね。なんてイヤなやつ
色めがねを外してみようとすること
さて、色めがねをかけていることを認識できたら、もうあとは簡単です。そうならないようにするだけです。
アウトプットに対してすぐに感情が揺らいでしまう場合
アウトプットに対する想像力を自分の限界まで広げることで回避できそうです。モノや人を形作る周りの様々な環境がどうあったのか。時代的な流行であったり、土地であったり、生活であったり、予算だったり、費やした時間であったり。
個々のすべてのモノや人には、様々な関係が複雑につながり合っており、想像してもしてもしきれないほどです。(仏教的に言うと、”縁”のイメージだけど、うまく言えない ※)
アウトプットがどれほどまでに苛立ちを覚えてしまいそうなものであれ、それらがなぜそうアウトプットされたのか、深く深く理解してみると、色めがねをかけることなく、心おだやかに物事と対峙できるのではないでしょうか。
改善のアイディアあっても心のうちに秘めてしまう場合
色めがねをかけている対象物に対して、期待をしていない場合に起こることだと思っています。
ただし、モノゴトに期待をしない結果、苦しかったり、辛かったり、面白くなかったりするのは自分自身だったりもします。
臆することなく、無精になることなく、向き合うことが大切。
また、自分自身が咀嚼したアウトプットの解釈は、思ったものと違うのもかも知れない。自身で完結することなく、正解を確認し、より良くしていくことができれば、自然と色めがねを外すことができそうです。
まとめ
ブログを書きつつ、自分がどんな考えのもとに色めがねっぽい思考パターンをしているのかをボヤボヤと考えることが出来ました。
どうあれ、色めがねをかけてモノや人を見ると、あまり自分にいい影響はなく、なんなら正しくモノゴトを認識できていないのだと実感しました。
じゃあ、明日から色めがねを外そう!だなんて思っても、なかなかすぐには外れないものだと思いますが、徐々に徐々に、曇ったレンズを磨いていこうと思ったりしました。